岐阜新聞「素描」2回目(全9回)

100人に1人

岐阜新聞 令和3年9月12日付 掲載

100人に1人

 大学ではナナハンに憧れてツーリングクラブに所属。当時ナナハン免許は自動二輪中型「限定解除」と呼ばれ、愛知県では平針試験場での一発試験のみ。合格者は100人に1人とも言われ、その敷居の高さに諦める人がほとんどです。ところが20名ほどのクラブで、ナナハンライダーの先輩が大勢みえて計算が合いません。先輩は「練習を積めば受かる。悔しければ取ってこい」と。弥富の自宅近くの木曽川河川 敷で練習を重ね4年生の時に合格。100人の1人になりクラブ仲間と学生時代を謳歌しました。
 大学時代には婿養子の話が事実上確定しており運送会社に就職し、2年で寿退社し婿入り。萩原にきて義父と挨拶回りした時です。一人の先輩に「なんだ、婿養子だったのか。と言われるようになりなさい」と激励を受けました。商工会青年部や消防団、趣味のバイクやアマチュア無線を通じ、皆さんに温かく迎え入れていただき、新たな人生がスタートしました。
 仕事面では製造部を経て営業部に所属。売り上げ・利益を伸ばすことが大命題ですが、競合も多く地元だけでは市場規模も限られる。ならば競合がなく大きな市場への進出を考えました。 しかし新規開拓は売れる確証もなく社内でも猛反対されました。確かに敷居の高い戦略ですが、地元出身でない私は逆に有利でした。 そこで考えたのは、 鶏ちゃん文化の啓蒙。鶏ちゃんは認知度が低い。限定解除の時のように100人の1人になり、自分自身が感動した「衝撃の旨さ!」を皆さんにお伝えすることにより、ブルーオーシャン戦略が出来る。そう決意して名古屋進出を始動しました。 

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岐阜新聞 令和3年9月12日付 掲載
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